田端久美子(仮名)、37歳
2014年12月放映 TV東京 ザ・ドキュメンタリー「難病女子の闘い」出演

小児で橋本病を発症(10歳で診断)ホルモン補充療法開始。2001年、39°C台の発熱が3-4日続いた後、就労中に徐々に体調悪化。2013年4月慢性疲労症候群診断、現在寝たきりの生活を送る。 



 

講演会主催佐藤より:2014年12月放映の、CFSを取り上げたドキュメンタリー番組「難病女子の闘い」。反響が大きかったのが田端さんの場面でした。「真っ暗な部屋で寝たきり...病名から受ける印象と、全く違って驚いた」と。CFS患者の約3割もが寝たきりに近い重症患者。「もっと早くに対処していたら、ここまで重症化しなかったと思う。患者の重症化を防ぎたい」と、自らの発症から現在までの経緯を伝えてくれました。



 

■CFS発症の経緯(きっかけ(学生時代)〜最初の職場)

 

小児で橋本病を発症、10歳で診断がつきホルモン補充療法を開始、現在も治療中。 このため、易疲労感、倦怠感は常態化していた。

2001年全身の疼痛を伴い39°C台の発熱が3-4日続く。他の風邪症状等はなかったが、痛みのみ2年弱続く。現在ある痛みと似ており、これがCFS発症のきっかけと私自身は考えている。その頃はCFS診断基準に当てはまるほどの活動低下はなかった。 

2003年地方の中核病院の外科系病棟に看護師として就職。勤務は過酷で、就職後からいつも疲れてはいたが、持病の影響もあると考えていた。 2005年頃から疲労感が強く、休日は丸一日寝て過ごすことが増えていった。

 


 

2007年退職できず在籍していたが、体調は悪化傾向。秋頃に腸炎で1週間お腹が下り飲食がままならなくなって以降、急激に体調が悪化。エネルギーが午前中までしか持たず、午後には省エネを心掛けた。勤務時間終了後、しばらく手に力が入りにくかったり、物をよく落とすようになったり、会話が聞き取れていても、言葉として認識できないことが、何度かあった。宅配業者と間違え自身の携帯電話に電話をかけ留守電を残してしまったことがあり、恐怖を感じたことを記憶している。このあとより、夜勤から外してもらうよう願い出た。過労と考えていた 2008年3月での退職を希望し、自己都合退職となった。 


札幌市へ引越し。退職後一ヶ月は寝たきりの状態で、引っ越し(独り暮らし)の荷解きもできず、 買い物など、同市にいた兄に手伝ってもらった。 光、音、振動(車など)に過敏性あり。

その後3ヶ月程である程度体調が回復、飲食店で アルバイト。生活費の関係で、深夜勤務専従で看護師のアルバイトも掛け持ちする。その一年、どこかの病院を受診していたはずだが記憶にない。



■CFS発症の経緯(一度目の転職)


家庭の事情などから正社員として働くため、 2009年1月から看護師として病棟勤務。2交代。


仕事量の少ない病棟のはずが、全介助が必要な病棟と心疾患の急性期、消化器などの混合病棟に配属。 同年2月には倦怠感など不調があり、
女性専用クリニックを受診するようになる。サイトにCFSが記載されていたのを見て、もし自分がCFSならば、対応してくれるだろうと予想してそこを選んだ記憶がある。CFSの可能性を疑っていたといっても、『サイトに載っているくらいだからわかるんだろう』位の感覚だった。当時はCFS研究班のサイトや確からしい情報が載っているものには出会えていず、CFSが重症化するとどうなるかなど、疾患の重大性を考えられるような知識は全くなかった。不調の相談もしていたが、ほとんどは甲状腺のホルモン剤処方を目的に受診していた。

 

 

夏頃から、食事の消化でエネルギーを奪われて動けなくなるようになり、勤務中は食事をしなくなる。 体調は徐々に悪化。



■CFS発症の経緯(二度目の転職、退職後〜現在)

 

2010年4月、体調は万全ではなかったがある程度動けるようになったため、会社員(治験コーディネーター)として就職。フレックスタイム制、 受け持ちクリニックの直行直帰可能なため、体を休める時間を取りながら働くことが可能だった。

2012年、その後も体調、仕事量を調整しながら仕事を続けていたが、指先の巧緻性(※うまく動かす能力)の低下や腕の挙上時の怠さと痛みがあり、整形、脳外科、神経内科を受診するが検査で異常はなかった入浴行動、特に洗髪やドライヤーの使用に不便を感じるようになる。歯磨きにも怠さが出て支障がで始める。


その後頭・首・背部(上部)に痛みがあるが、鎮痛剤は効かず、痛みや上記の行動の症状はかかりつけ医に相談はしていた。

 


 

2013年3月微熱が続き、急激に症状が悪化していった。徒歩5分、地下鉄二駅の移動もかなり困難に。車出勤が主であったが、昼休みは車で横になった。箸を使うこと歯磨きなどが困難なこと等、日常生活に困難や苦痛が強くなっていった。

2013年4月1-2時間椅子に座っていることも困難となり休職9月に社内規定により退職した。


体調が悪化し始めた2013年3月~5月に除外診断のため、複数の病院で神経内科、膠原病外来、整形外科を受診するが異常なし。かかりつけクリニックでNK細胞活性値測定で17%と低値だったこともあり、2013年6月CFSと診断された。 

 



■持病とCFSの関係性と、症状悪化要因


 

右記スライドにもあるが、私の場合、発症の契機と思われる2001年の発熱以降、体調がよくなったり悪くなったりを繰り返し、徐々に悪化した。


特に
「腸炎(2007年)」「発熱(2009、2013 年)」などを境に、体調が急激に悪化した。

2015年現在は、2-3メートルの範囲が生活圏 食事・服薬以外は横になっていることがほとんど。

外出は月1回、通院時のみで、両親による車送迎、付き添い、病院内は車椅子を押してもらう。 自力で体を起こし、支えていることが困難で、思うように動かせず、食事で箸を使うなど、その他日常動作も困難が多い。入浴は全介助が必要。 

次に、これまでの記載と重複もあるが、私の普段の生活の具体的な様子をお伝えしたいと思う。

 



 

■現在の生活状況(日常生活動作等で、できること、できないこと)

 

《生活状況》 普段は気圧の変化や天候に体調を左右されながら布団に張り付いている。強度の倦怠感筋力低下脱力等の他、光・音過敏もあり、TV等日常 生活の音と光に耐えられない。夜は豆電気で過ごし、日中はロールカーテン等で暗くしている。

体力維持のため、できるときには極軽いストレッチ程度はするようにしているが、普段は自力で体を支えることが非常に困難。体調がよい時には、テーブルに肘をつき頭を支え起きるが、普段は脱力と激しい消耗感で布団から起き上がれない

できることは、スマートフォンで(Twitter)情報収集する程度。PCは座っての操作が困難。

食事:自室に朝・昼の食事を運んでもらい食べる。食卓が二階で、階段昇降が困難なため。 

 



 

《生活状況》 普段は気圧の変化や天候に体調を左右されながら 布団に張り付いている。強度の倦怠感筋力低下脱力等の他、光・音過敏もあり、TV等日常 生活の音と光に耐えられない。夜は豆電気で過ごし、日中はロールカーテン等で暗くしている。

体力維持のため、できるときには極軽いストレッチ程度はするようにしているが、普段は自力で体を支えることが非常に困難。体調がよい時には、テーブルに肘をつき頭を支え起きるが、普段は脱力と激しい消耗感で布団から起き上がれない

できることは、スマートフォンで(Twitter)情報収集する程度。PCは座っての操作が困難。

食事:自室に朝・昼の食事を運んでもらい食べる。食卓が二階で、階段昇降が困難なため。

 



 

■社会保障受給状況(障害年金・障害者手帳)

 

■障害年金
兄に委任し手続き。札幌市の年金事務所で、様式は肢体不自由と精神しかないといわれ、すぐに診断書様式はもらえず、後日郵送。職員はCFSの病名は知っていたが、使用書式は把握していなかった。
(※注:2015年時点「血液・造血器・その他」の書式を使用)

事後重症で申請し、2ヶ月で、二級の通知が来た。診断書はPS8。

札幌のかかりつけ医で診断書を書いてもらえ、煩雑な確認が少なかった。申請者記入欄の「困っていること」欄に具体的に記入するなど工夫した。


 

■障害者手帳
CFSでの障害者手帳取得は困難と聞きソーシャルワーカーデーに電話相談をした。手帳未所持で受けられるサービスの有無等知りたかった。担当者 はCFSの病名は知っていたが、精神障害者手帳の話をされた。
(注:CFSで取得するのは「身体障害者手帳」)

当時受診中の大学病院担当医に相談し、院内の指定医(リハビリテーション科)を受診し、身体障害 者手帳申請用の診断書作成を依頼。指定医はCFSを知らなかったが、手の脱力の症状が強いことを伝えると、握力測定を行った。数回の測定で13→5kgとすぐに握力の低下があった。

 


指定医は、座位困難な状況、会話での息切れ、疲労の状態を見て
「手帳が取得できるまで、何度でも工夫して診断書を作成する」と言ってくれた。 診断書は上肢二級下肢二級で記載。

 

申請時は、CFS研究班のサイトの印刷も提出。 2ヶ月で通知が来て障害者手帳を受領できた。

恐らく北海道ではCFSで障害者手帳を取得した前例はないと思われる。
 


 

札幌在住時、役所の福祉課に福祉支援について相談の電話をした。「CFSで、寝たきりの状態。外出できず、買い物もネットスーパーのみ。手帳がなくても受けられる支援がないか相談したい」と切り出すと「障害者手帳に病名は関係ない。主治医と相談して」のみの回答。全く取り合ってもらえなかった

旭川での申請時は、身体障害者手帳用診断書を持参したためか、特に問題なく受け取ってもらえた

少なくとも身体の手帳が取得できたので、病名で弾かれることなく障害の程度で判断されたのだと思う。 


また認定の要因の一つに、私の症状程度が「症状固定」とみなしやすかったことがあるかもしれない。




 

〜講演会開催に寄せて (講演会当日に会場で流した音声メッセージより)〜

 

 

はじめまして。私が慢性疲労症候群で動けなくなり、仕事を辞めざるを得なくなってから3年あまりの療養生活が続いています。退職から現在まで、ほとんど寝たきりの生活をしています。

私は以前、看護師として6年ほど病棟勤務をしており、一般外科では、がん患者様の手術から看取りまでをしていました。違う病院では慢性腎不全で透析をされていて、退院予定の立たない患者様の看護もしていました。

 

慢性疲労症候群について調べた際に、海外の論文で、「慢性疲労症候群の重症患者の生活の質は、終末期の慢性腎不全の患者と同程度である」 というものを目にしたことがあります。

私の看護師の経験からは、多少の違和感を覚えました。 私自身の実感としては、慢性疲労症候群の患者の重度の倦怠感は、余命数週間の末期の癌患者様の訴えに、より近いと感じます。

身の置き所のない、どうにも対処できない倦怠感、強い疲労感 生活の質も、終末期慢性腎不全の患者様よりもよくないと感じています。

筋力や体力の回復にはかなりの時間を要します。

食事をすればその動作と、消化することに体力が奪われ、疲れて眠ってしまいます。


洗面や歯磨きは毎日できませんし、頭も1人で洗えず必ず介助が必要です。

シャワーや入浴も介助してもらっても、体力的に2週間~1ヶ月に1度がようやくです。その後寝込んでしまうからです。

自力で外出ができないどころか、自宅でトイレに行くことさえ困難です。二世帯住宅の作りになっているのですが、トイレに近いリビングで寝なければいけません。

認知能力や記憶力の低下もあり、自宅の電話に出ることもできません。伝言ができないからです。メモを書くまでの間に忘れてしまいますし、文字もわずかしか書けません。

 

父も介護が必要な状況で、母は父と私の2人を介護せねばならず、疲れきっています。今は、私は障害者手帳の受給により、介護支援を受けられるようになりました。いくぶんか、母の負担を軽減できたと思います。


疾患の症状のため、外に出ることも、TVを見ることもできず、ただ部屋で横になっている日々が、もう3年になります。

しかし、障害年金や、障害者手帳の受給ができず、必要な支援が受けられない慢性疲労症候群の患者さんが、かなりたくさんいると思います。私はただ、とても幸運でした。

 


この医療講演会を機会に、慢性疲労症候群を少しでも多くの方に知っていただき、社会保障や福祉支援が必要な疾患であることを、知っていただければ、うれしく思います。